遥かなる時を超えて
7「神なる子」
水色真珠
アキラが動揺を抑えて汗ばんだ手でドアを押すと
カギをかけてない半開きのドアはギッと鳴いて開いた。
その音にさえ心臓が飛び上がるのを表に出さぬようにおさえながら
会釈して退意を示すと神子も軽く頭を下げた。
ホッとした想いと曖昧な疼きを抱いてアキラはドアを出た。
都会にしては星が瞬いている。
そう思った時、背後で小さな呻き声とともに何かが倒れたような音がした。
音に反応して思わず振り返った先には、いま後にしたドアがあった。
そういえばアキラが帰ったのに何故カギをかけないのか。
イヤな感覚が胸を染める。乾いた喉を叱咤して声をかけた。
「あの…カギをかけて下さい。無用心です。」
いらえはない。
慌ててドアを開けると神子は玄関の三和土に座り込むように意識を失っていた。
軽く頬を叩くとボンヤリと目を開いた。
「具合が悪いんじゃないですか?」
アキラの問いに小さく首をふるが声も出ない様子が体の状態の悪さを如実に表している。
強引に抱き上げると佐為の隣に布団を敷いて寝かせた。
ぐったりとしてなすがままの神子に状況が切迫しているかもしれないとアキラは考え、
救急車を呼ぼうとしたケイタイの番号を近所の旧知の医師の番号に押し変えた。
父の子どもの頃からの主治医である医師はアキラを棋士としても
息子同然の父の子どもとしても可愛がってくれている。
嫌な顔ひとつせず出来る限りの装備を整えて、すぐさま現れた。
しばらくアパートの廊下へと席を外したアキラは小一時間もしないうちに医師に招かれた。
アキラが部屋に入ると医師は慎重にドアを閉め話をはじめた。
「過労だね。持病があるのだから若いからってムチャはいかんね。」
「持病って何ですか?そんなに仕事をしているんですか?」
「心室に穴があるらしい。その分、他人より疲れやすいだろうに
睡眠薬を飲ませようとしたら朝
4時に起きられるかって言ってたよ。」「そんな…彼女が帰って来たのは
12時過ぎなんですよ。」重ねた歳以外の皺が医師の眉間による。
「お父さんの手術費もいるらしい。だがお母さんも彼女も良い収入の口がないらしいね。」
アキラの顔にも苦渋の色が浮かぶ。
当たり前だ。母親は歳だし。彼女も子どもを抱えている。
「気になる…人なのかね?」
医師は騒ぎにも気づかぬ佐為のあどけない寝顔に今度は目尻に幸せそうな皺を寄せながら聞いた。
アキラは考え込んだ。
考えを巡らせるうち混迷する混沌の中から何かが生まれてくるのを感じた。
何か硬い限りなく純粋で透明なクリスタルのような…。
「わかりません。ただ、この人以上に美しいと思う女性には今生で出会うことはないように思います。」
医師は大きく頷くと一通の封書を手渡した。
「だったら是が非でも説得したまえ。これは病院への紹介状だ。ないよりはましだろう。」
受け取るのが躊躇われた。
それが『まし』どころか大きな力であることは医師の経歴や地位を考えれば明らかで
何も気づかず無邪気に受け取れるほど無知な子どもではないのだ。
だがアキラは受け取った、間違いなく自分のためであったら受け取らなかったであろうものを。
「ありがとうございます。」
アキラが言うと医師はアキラの目を見た。医者の目ではなく祖父のような目だった。
「君が…そう言えるほどの女性に巡り会ったこと。それが嬉しいよ。」
瞳が皺に隠れた。
それが昨夜のあらましだった。
研究会が終わった後、アキラは自分の感情は抜いてヒカルに話した。
「それで?オレは何をすればいいんだ?」
アキラはニッコリ笑った。
「別に。佐為の出世払いということでお金を出してくれればいい。
ボクは彼女の。君は彼女のお父さんの治療費を出すんだ。」
「いいけど…彼女、納得しないぜ。きっと。」
ヒカルにしては珍しいシブい顔でため息をつく。
「そうだね。でもボクらは棋士だろう。どう詰めていくか…だよ。」
ヒカルは思わず目を見開いてアキラを振り返った。
「お前…なんか桑原先生に似てきたぞ…」
不本意な言葉を受けてアキラは思わずヒカルを睨み返した。
検討に検討を重ねた説得方法を携え二人は夕方近くなってから
飽きて寝ている佐為をおぶってアパートを訪れた。
色々と考え検討を重ねた挙句がヒカルの直球勝負になってしまったのは
やはり佐為との関係の深さの分ヒカルに歩があったということで…
だがアキラは、そんな結果に安堵していた。
やはり桑原の真似事は向かないし
彼女のためにも佐為のことを話しておくのは意味があると思ったからだ。
問題は荒唐無稽な話を彼女が信じてくれるか…である。
アパートに着くと神子は着替えて出かける準備をしていた。
二人が咎め立てる目をしているのに子どものようにうろたえて
首に巻くはずだったスカーフを頭に被ってしまった。
スカーフの隙間から怖気づいた仔猫のような目が覗いている。
「神子さん!」アキラとヒカルが同時に声をかけるとピクンと首をすくめる。
思わず吹き出したくなるくらい普段の神子は子どもっぽい。
だがアキラはスカーフの下から覗く首の細いラインと華奢な肩に
昨夜の心の中に生まれた疼きを思い出して笑えなかった。
傍で笑い出してしまったヒカルに神子が気をとられていることを願いながら
自分の気持ちを静める。
バツが悪そうにチロリと舌を出した神子がおどおどと言い出す。
「もう大丈夫だから仕事へ行こうと思って…」
だが一見和んだかに見えたヒカルも内心穏やかでないアキラも再び同時に叫んだ。
「ダメです!」
アキラとヒカルは厳しい表情で神子に仕事先に休む連絡を入れさせると
話があるからと座らせた。
とりあえず最初に切り込むのは真面目で信用度が高いアキラと打ち合わせていた。
ヒカルが頷くとアキラは話し始めた。
「昨日、診て頂いたお医者様から紹介状をもらいました。
費用はボクと進藤で佐為の出世払いということで貸します。
お父さんと一緒に入院してください。」
神子が断りを口にしようとするのをヒカルが遮った。
「理由もなく貸すといってるんじゃないんだ。オレは、そうしなければならない…
いや、そうする権利がある!」
神子が驚いて首を傾げると間髪を入れずにヒカルは話し始めた。
アキラは自分に佐為のことを話した時とは違い熱っぽく瞳を輝かせながら
泣き笑い話す進藤ヒカルを傍らで眺めていた。
あの時は階段を一歩一歩降りながら独り言を呟くように砂を噛むように話していた。
それが今は、まるで出会ったばかりのころに戻ったようだ。
苦鳴を噛み殺していた時も、真新しい扇子を握りしめていた時もあったのに…
いや、今でも心の中に傷はあるに違いない。
だが佐為との出会い、そして喪失、失意からの立ち上がり、再びの出会い、
揺れ動く中で進藤ヒカルの心は強くなっていった。
そして苦しみに負けない力を得、明るさを取り戻し、
それどころか佐為がいる今さらに輝くことの出来る強さを得たのだろう。
辛い想い出を超えて微笑むには強くなければ出来ないから。
ヒカルが話し終わると目を見張っていた神子がうつむいた。
アキラは神子の肩に手を置くと瞳を覗き込んだ。
「信じがたい話でしょう。だから信じなくてもいい。
佐為のためにも生きていて欲しいんです。
今、あなたまで亡くしたら一人ぼっちになってしまう。
ボクは恩人をそんな目に合わせたくないのです。」
神子は意外な言葉をもらした。
「私には今の話信じられます。私の知っていることと辻褄が合いますもの。
ですから、ありがたく御好意をお受け致します。」
今度は二人が驚く番だった。
「あの子に囲碁を教えたのは私です。本もテレビも見せなかった。
でも最初から佐為の中には進藤先生の棋風いえ進藤先生の碁がありました。
いくら不審に思っても問いただしようもない子ども。ただ不思議がるばかりでしたけど。
今の話が本当なら納得がいきます。」
神子は顔を覆って泣いていた。
「なんという神の一手でしょう。こんなにも気の遠くなるような奇跡があるなんて…。」
アキラもヒカルも思わず頷いた。
千年も前を生きた佐為、ヒカルとの出会い、それが転生して現世を生きることになって…
考えると絶句してしまう奇跡だろう。
「神子さんが見た今の佐為の中にあったオレの碁は、そう見えるだけで
オレが受け継いだ…もともとは、以前の佐為の碁だ…。」
ヒカルの言葉に神子がコクンと頷いた。
「オレの中の佐為がいなくなった後もオレは佐為の碁を引き継いで、その碁をまた佐為に繋げている。
神子さんが血筋で繋がっているんなら、オレも碁で繋がっている。
碁に遺伝子があるんなら確かにオレはそれを佐為からもらって
自分の遺伝子と合わせて以前と違うオレが目覚めた。
今のオレは佐為とオレ、二人の碁の遺伝子を持っているって確信してる。
そして今の佐為に今のオレ遺伝子を渡す必要があることも。」
アキラは、このとき初めてあれほどヒカルが今の佐為に全てを受け渡すことに拘ったかわかった。
ヒカルが今の佐為へ今までの全てを受け渡すことは以前の佐為と今の佐為を繋ぐだけでなく
以前に佐為がそうしたように自分の碁の遺伝子を渡すことでもあるのだ。
厳格な自然の摂理に従ってヒカルは本能的に強い種を作り出すために必要なことをしようとしているのだ。
冷や汗が流れた、天才と天才の血が交わり重なる先にどんなことが起こるのか。
怖気がふるうほど期待と喜びに胸が高鳴る。佐為は強くなる…桁外れに強いがさらに強く、より強く。
そして神の一手への道を駆け上がるだろう。さらに高みへ、より高みへ。
アキラに天啓のように広く遠いものが見えた。
ヒカルは自分と佐為のことだけしか見ていないが、貪欲な佐為の碁はアキラや行洋のみならず
多くの棋士の碁を吸収している。そしてまた佐為の碁は多くの者に影響を与えている。
桑原の言葉を思い出した。
『ワシの碁が若い者達と打つことでヤツラの碁に影響を与え新しい碁が生まれる。
そして影響を受けたヤツラは、さらに若いヤツラに影響を与える。
そうしてワシは、ワシの碁は、世代を超え時代を超え生きていく。
気がするだけでなく本当に寿命がのびているんじゃなぁ。
ふひゃひゃひゃひゃ。
まるで盤面の流れのようじゃのぉ。
おもしろいのぉ、碁は、人生は。』
囲碁界自体も劇的に変わるだろう。さらに高みへ、より高みへ。
目隠しで十九路を神の手の打つ方へ歩むようであるのに…面白い、碁は、人生は。
来るべき高みを垣間見た喜びに震える体を抱えてアキラは神の思惑を見たと思った。
H
.16 10/1つづく
あとがき
やれやれ難所をようやく越えました♪
以前からの伏線がようやくいかせました
ホッと一息です
(*^。^*)次からは、かねてからもうひとつ伏線をひいているアレです♪