遥かなる時を超えて 5

step-by-step    水色真珠

 

夕方近くになり、ジェニファーが夕餉の支度をしているのだろうか。

良い匂いがしてきた。

「ほぅ、今日はカレイの煮つけかのう。虎の好物じゃなぁ。」

虎次郎は嬉しそうに跳び上がると子どもらしい笑顔を浮かべた。

「はい。でもわたくしはお母様のお料理はみんな大好きです。」

そうしてると無邪気で佐為と大差なく思える。

「じゃあ、そろそろおいとましましょう。」

好機とばかりアキラが立ち上がりながらヒカルに目配せする。

ヒカルも頷いて立ち上がる。

あまり長居したくない状態なので退散するには絶好のチャンスなのだ。

「なんじゃ。メシは食っていかんのか?」

桑原がからかうように笑うのに、曖昧な引きつり笑いを返す。

「佐為の母さんに早く帰るようにいわれてるんです。」

「はい〜。じいじ〜また遊びましょうです〜。」

佐為が小さな手を振ると桑原は目を細めて愛しそうに佐為の頭をなでた。

「うむ。では、またな。楽しみにしているぞ。」

ヒカルとアキラは態度の違いに些かムッとしないでもなかったが

桑原に頭を撫でててもらうなんぞ絶対願い下げなので

別れ難がっている桑原から佐為を引き剥がして

さっさっと退散することで溜飲を下げた。

廊下を歩いていると台所から割烹着姿のジェニファーが出てきた。

「まぁ。もうお帰りですか。また、遊びに来て下さいね。」

佐為にするようにヒカルもアキラも頬にキスされて

いかに自分達が子どもで、佐為たちと同列に思われているか思い知らされた。

たぶん、それは真実なのだが、桑原の態度とは違う意味で少し不本意だった。

「お母様。」

虎次郎がジェニファーの足元にまとわりつく。

「お料理するの見ていていいですか。」

虎次郎の子どもらしい甘えた言葉にジェニファーが可愛くてたまらぬ様子で抱きしめる。

「じゃあ、虎次郎さんにお手伝いしてもらおうかしら。」

「はい。」

なんとも素直な子優しい母で心温まる母子の姿だった。

 

桑原邸を後にしてヒカルは溜め息をついた。

「あんなドラマみたいな親子って本当にいるんだな?」

「えっ?うちも碁を打っている時以外はあんな感じだったけど。」

塔矢アキラの言葉に思わずヒカルがひく。

「えっ?!お前、手伝いとかしてたのか?!」

「君こそ、そんなこともしていなかったのか?」

お互いに呆れた視線を交わして車に乗り込んだ。

車をスタートさせようとした時、ヒカルのケイタイが鳴った。

「うん?あかりかぁ。なんだろう。」

運転をアキラに代わってもらってヒカルはケイタイにでる。

「もしもし?ヒカル。」

いつもの声にちょっと違った緊張感がある。

「なんだよ?」

「あのね。私、入社決まったの。この間の臨時募集の日本棋院出版部。週刊碁配属だって。」

「はあ?入社?日本棋院出版部週刊碁配属?お前そんなとこ受けてたの?」

「言ったじゃない!ヒカル、そうかそうかって言ってたのに!」

怒ったあかりの高い声がケイタイから漏れ聞こえる。

「進藤。おめでとう、くらい言ったらどうなんだ?」

「どうなんです?」

アキラと佐為から促されて、ヒカルは不承不承に言った。

「うっ…。わ…わりぃ。おめでとう。んで、なんでオレんとこかけてくんだよ?

おばさんとこかけろよ。心配してんだろ?」

「母さんにはかけたわよ。それに仕事柄関係してくるんだもの。

ヒカルのとこにかけたっていいじゃない。」

そう言われると返す言葉がない。

「あかりさん、日本棋院の側にいるのか?」

突然、アキラに言われて思わず確認してしまう。

「お前、棋院の近くにいんのか?」

「え?そうだよ。ロビーよ。」

塔矢が車を止めた。

「ちょうど良かったな。進藤。」

日本棋院前だった。

桑原邸から佐為のアパートまでの通り道ではあるが驚くべきタイミングの良さだった。

「じゃあ、佐為はボクが送っていくから。」

ヒカルは車から下ろされて我に返った。

「おい!だれが、あかりと会うって言ったんだよ!それに、これはオレの車だぞ!」

怒鳴り声をあげるヒカルにアキラは取り合うつもりもないように車を回す。

「これから御世話になるんだ。それに幼なじみだろう。祝ってあげるものだと思うよ。」

「だからって、なんでオレの車を…。」

「ここから佐為を歩かせるわけにはいかないからね。

それに運転は君より確かだ。安心したまえ。」

佐為が小さい手を振ってバイバイしている。

車は夕焼けの中、走り去っていった。

運転は…と言われて言い返せないヒカルは呆然と取り残された。

確かにアキラはゴールド免許だが、ヒカルは飛び出してきたネコをよけて

ボンネットに細い電柱をめりこませたことがある。

車はおしゃかになり、アキラには散々、佐為を乗せている時だったら…と叱られた。

オレはどうでもいいのか?と突っ込んだら君はそれくらいで壊れやしないと言われた。

以来、車に関して分が悪い。

諦めて溜め息をついたヒカルの後ろから声がかかった。

「ヒカル。来てくれたんだ。」

来たくて来たんじゃねぇけど。思いながら振り返ると入社手続きのためだろうか。

化粧した顔、大人びたスーツの見慣れないあかりがいた。

「お前…なんか変わったな?」

「またぁ?どうせ背が縮んだとかいうんでしょ。」

笑う口元が赤く艶やかで、それだけでないことを思い知らされる。

細っこくって柔らかそうで…そこまで考えた時ヒカルは自分の目線が

あかりの胸にあることに気が付いて気づかれぬように慌てて目をそらす。

「入社祝いに奢ってやるよ。」

ヒカルが耳まで赤くなっているのを隠して駆け出すと

あかりは大喜びでついてきた。

「なに奢ってくれるの?」

「カニさんウィンナーでもプッチンプリンでも、なんでも言ってみろよ!」

「え〜っ、なにそれ?!ヒカルってば〜!」

あかりの幼稚園時代の好物をちゃんと覚えているけれど

大笑しながら駆けていく二人は幼稚園時代とは確実に変わっていた。

 

闇にビル街の航空障害灯が映える頃、二人は高級ホテルの最上階のラウンジにいた。

この間、芹澤の研究会に顔を出した時に帰り際

成人したお祝いにとか言われて無理やり連れ込まれて飲む口実にされたところだ。

まぁ、安くはないがヒカルが支払いに困るほどでもない。

お祝いというとこういうところなのだろうと深く考えず決めてしまったが

やはり20歳になったばかりの二人には敷居の高いところだった。

「ねぇ、ヒカルぅ。こんな大人っぽいとこ大丈夫?」

不安気に言われると男として引くに引けない。

「な…なに、いってんだよ。もうオレは5年も社会人やってんだぞ。

何回も来てるんだよ。

それに棋士の付き合いは、こういうとこにも来んだぞ。

慣れといた方がいいだろ!」

薄暗い店内、柔らかな音楽、間接照明が照らす煌びやかな人々。

黒を基調に燻し銀をあしらったシックでありながら豪華な内装。

足をとられそうな絨毯。

ジーパンとTシャツの方が似合いそうなのに無理してスーツを着込んだような少年と

慣れない化粧の少女がおどおどとカウンターに座ると

バーテンは微笑ましそうに目を細めた。

「なにになさいますか?」

さりげなくソフトドリンクのメニューを渡す。

ヒカルは芹澤たちと来た時に飲まされた水割りが苦くて美味しくなかったので

どうしようかと迷っていたが出されたメニューに見慣れたものを見つけてホッとした。

「えーと、オレ、ジンジャエール。お・・・お前は?」

あかりをふりかえると、あかりも慌ててメニューを覗き込んでコツンと額があたった。

しかし顔が近いのに気が付かないくらい二人とも緊張している。

「わ…私、オレンジジュース。」

星空の一部のような高層ホテルの高級ラウンジで

ジンジャエールとオレンジジュースをすする二人に紳士淑女の優しい目線が注がれる。

「まぁ、かわいらしい。」

「私にも、ああいう時があったものだ。」

「ウソおっしゃい。」

小さな囁きと笑いが交わされる。

だが和んでいるのは周囲だけで本人たちは緊張でいっぱいいっぱいだ。

まわりに自分達がどう思われているかなんて考える余裕はない。

ヒカルは汗をかきながらも必死に頭をめぐらせて

黙ってジュースをすすっているのもヘンか…と思った。

だが話し掛けようとあかりを見ると胸に目がいき

さっきのことがフラッシュバックして慌ててしまう。

気持ちを切り替えようと首を振る。

なんだよ、あかりなんか昔は一緒にすっぽんぽんでプール入ったじゃんか。

考えて自爆だったことに気が付いた。

あかりがすっぽんぽんで、それがどうした。そんなものが何だっていうんだ。

ところが、それが頭をめぐって思考が出来ない。

なんとか落ち着こうとグラスを手にして一息に飲んだ。

…が、それは何故か隣の客のスクリュードライバだった。

さしてアルコール度数の高いほうではないが

レディキラーの異名は伊達ではなかったようだ。

もっとも普通は男は飲ませる方で決して飲んでぶったおれる方ではない。

「きゃ〜!ヒカル大丈夫?!」

真っ赤かでひっくり返ってしまったヒカルをあかりは半べそで揺さぶるが

ほや〜んとした顔で反応がない。

「あぁ…。ゆすっちゃダメ。よけいまわっちゃうわ。」

クスクスと確信犯な笑みを浮かべながらタイトなドレスの女性がヒカルの顔を覗き込んだ。

緩く波打つ結い上げた髪が剥き出しの肩を這い豊かな胸から流れてヒカルの頬をなでる。

「可愛いわね。彼氏?」

あかりが真っ赤かで否定すると一本の鍵を差し出した。

「これじゃあ帰れないでしょ。休んでいくといいわ。

あぁ。支払いはしてあるから大丈夫。」

「あの、でも貴女がお泊りでは…」

しどろもどろのあかりに連れの男性がウィンクした。

「彼女の悪戯のお詫びだよ。」

女は小悪魔の笑みを浮かべて男性の耳をひっぱると仔猫のように舌なめずりをして囁いた。

「私たちは、もっといいところへ行きましょう。」

「おおせのままに。」

何がなんだかわからぬままに呆然としているあかりを残して二人は消えてしまった。

バーテンが従業員に連絡をしてヒカルを部屋に運んでくれた。

水を飲ませ薬を飲ませ、ホテルドクターから一晩寝かせれば大丈夫という

お墨付きをもらってホッとした時には電車はもうなかった。

帰ることも出来ずあかりはヒカルの寝ている豪華なダブルベットの側をウロウロしていた。

考えがまとまらないのだ。

天蓋つきのベットって憧れだったのよね。可愛いコスメセットだけど使っていいのかなぁ。

とか逃げてみてもヒカルと二人きりでホテルにいる事実は変わらない。

悲鳴をあげて座り込みたい衝動をおさえるだけで精一杯。

やっと眠たくなってからお母さんに連絡していないことに気が付いた。

ケイタイには何度も母からの着信記録があった。

心配をかけてすまない気持ちで慌ててダイヤルする。

「あのね、母さん。今日遅くなっちゃったから泊まるね。

ううん、一人じゃなくてヒカルと。」

眠い頭から必死で引っ張り出した言葉が問題であることを気が付く余裕はなく

ただ事実をありのままに告げてしまった。

母親はしばらく沈黙した後、

ベットを汚すといけないからタオルを敷きなさいと言って切った。

あかりはなるほどキレイなベッドにヒカルが気分が悪くなって吐いてしまったら大変と

重い身体を引きずって浴室から持って来た大きなタオルを敷くとヒカルの身体を

ゴロゴロ転がして乗せた。

自分も隣に倒れこむ。

ヒカルの寝顔に胸がチクリと痛んだ。

小学校の頃も遊びつかれてお互いの家に泊まって並んで眠った。

あんなに一緒だったのに、いつの間にか一人で先に歩いていってしまった。

ついて行きたいのに少しも追いつけない気がする。

前だけ見ているようなヒカルの目に映るにはどうしたらいいの。

苦しい思いが涙になって流れる頃には、あかりもすっかり寝入っていた。

 

                        H.16 6/16 

つづく

 

あとがき

あぁ、やれやれ。ようやくホテルまでこぎつけました。

でも期待しちゃいけませんよ。

うちは笑いはあっても色気はないですから(^-^;)

塔矢はシリアスで大変な目にあっているのにノンキなお二人さんです。