遥かなる時を超えて 3

「TORAJIRO」    水色真珠

 

塔矢副理事の碁会所は重苦しい沈黙に包まれていた。

フッと緒方がタバコの煙を吐き窓の外を見る。

「長考か…考えてもムダだと思うがな。」

ヒカルがキッと緒方を睨む。

「他人事みたいに言ってないで、さっさっと投了して下さい。

それからタバコを止めないと佐為とは打たせませんよ!」

緒方と碁盤をはさむ佐為が涙目でパタパタと煙をあおいでいる。

慌ててタバコを消すと緒方は頭を下げた。

「負けました。」

ギャラリーがどよめいた。

それはそうだろう。

緒方は他のタイトルこそ取ったり取られたりを繰り返しているが

十段・碁聖はキッチリ保持して放さない正に日本のTOP棋士の一人だ。

それが6子置きとはいえ幼稚園児に負けるなど

本人でなくとも逃避したくなるくらいだ。どよめくくらい当然だろう。

「も…もう一局!」

言うなり緒方は佐為の小さな手をガッチリつかんで碁会所のドアを開け

連れ去ろうとしたが受付で市河さんの持ったお盆が頭にヒットした。

「きゃあ!ごめんなさい、つい。」

自分の行動に驚いた声をあげた市河さんにヒカルが笑う。

「緒方先生がやると不審すぎて皆が阻止してくれるから

かえって心配がないんだよな。」

芦原が声も枯れそうなくらい爆笑してうなづく。

「だって〜、白スーツの怪しいおじさんが、

こんな可愛い子を連れて逃げたら不審すぎますよぉ。」

お盆で殴った自分を正当化するように市河さんが口をとがらせる。

「オレは、もう一局打ちたいだけだ!」

叫ぶ床にへたり込んだ緒方の膝から佐為を抱き上げると

塔矢アキラがニッコリ微笑んだ。

「ダメです。次ぎはボクの約束ですから。」

佐為と打ちたがる棋士は多い、

一度打ったことのある棋士なら、なお打ちたがる。

打ちたがらないのは佐為の力を知らない棋士くらいだ。

一度でも佐為と打つと自分の弱点をつく一手に驚愕させられ、

その後にまるで指導碁以上の自身の覚醒とレベルアップを実感する。

佐為の手筋は深遠無底で広大無辺、雅で精緻かつたおやかで強靭、ゆえに美しい、

だが対局経験の少ない分だけ、こちらに勝機がある。

しかし、もしここに経験が加わっていけば…自分に勝機はあるだろうか?

そう思うと、まるで天国から奈落の底を覗き込むような恐怖と快楽が走る。

確実に自分の覚醒とレベルアップが望めるが、

それはこの幼い天才に唯一欠けている経験を積ませることになる。

それが加わった時に自分に勝機はないかもしれない、

だが…それを、その無敵の強さを見てみたい、

その神の手で打ち砕かれるのは自分だとしても。

それが佐為と打ちたがる棋士達の共通の思いだった。

そのなかでも以前のsaiが佐為であると知る塔矢行洋は格別熱心だった。

もちろんアキラやヒカルも想いは並外れていたが、行洋のそれは

まるで早く経験を積ませて、その強さを引き出したがっているように、

その経験がかつての記憶を呼び覚ますことを求めるように、

碁を打つのは佐為とだけで自分の経験の全てをつぎ込んでいる。

表向きは佐為かわいさに相手をしているように装いながらも隠された

父親の血を吐くような切実な思いを塔矢アキラは痛いほど感じていた。

自分と進藤のように共に並び立つ競い合える相手が父には必要なのだ、

血肉を真剣で切り合い鎬を削り合うライバルが。

いずれ、その時は訪れるだろう。

だが神の一手を極めるために…ただ時を待っていることは出来ない。

とはいえ、それを表に出すことなく好々爺に徹しつつ

佐為と打つ父の我慢強さに感服する。

時々、真剣に演技ではないのではないかと疑う時もあるが

それはそれで佐為のためにはいいことだと思う。

「はやくはやく打ちましょう〜。」

佐為が塔矢の手の中でジタバタせかす。

佐為用の厚みのあるクッションをひいて座高を上げたイスに座らせると

大喜びで届かない足をパタパタさせる。

ふと、その時に持っているものに目がいった。

いつもの扇子の他に棒の付いた青いイルカ型の飴。

塔矢の視線をたどってヒカルがクスッと笑った。

「ここ終わったら虎次郎のとこへ、桑原先生んちへ行くんだ。

お土産なんだってさ。」

緒方が不機嫌そうにヒカルを睨む。

「あんなところへ行く時間があるなら俺に打たせろ!

だいたい虎次郎だぁ?名前負けじゃないのか?」

芦原がとりなす。

「まぁまぁ、桑原先生ご自慢の息子さんなんだし。」

「へー、芦原さん知ってるんだ!」

ヒカルが思わず驚いて芦原に問うと彼はやや困った顔で頷いた。

「生まれた時、ハガキが来たからさ。塔矢先生のところにも届いたはずだぜ。」

塔矢アキラは、ひきつった笑みを浮かべつつ首をふる。

「ボクは見ていません。」

言外に見なくて良かったと書いてあるような声だった。

緒方がニヒルな笑みを浮かべる。

「あー、あの目の開かないサルみたいなのか…

ジジィの孫なのは、同じサル顔でわかったから

読まんで捨てた。」

ますます困り顔で芦原が指を振る。

「あ〜、もう!だ・か・ら・孫じゃなくて息子なんですよ!

桑原先生のこととなると拒否反応がひどいんだから!」

それは言わない方がいいのでは…とヒカルと塔矢は思ったが

すでに遅かった。

ギギッと首を芦原に向けると緒方は絶対零度で凍り付いた死人のような表情で言った。

「息子?」

その時、佐為がかけた追い討ちはヒカルや塔矢も凍りつかせた。

「トラちゃんはサルとは似てません、これと似てるんです。」

振り回していたのはイルカの飴。

…イルカに似た顔なのか?

一同の頭に異様な想像が浮かぶ。緒方が噴出した。

「サルの子はイルカか?こりゃあケッサクだ!」

「ちがいます〜。トラちゃんの目は、とってもキレイなんです〜。」

塔矢がバタバタする佐為にあやすようにいう。

「落ち着いて言ってごらん。それじゃあ意味がわからないよ?」

佐為は少し考え込むとにっこり笑っていった。

「トラちゃんの目は、とってもキレイで、この飴の色と似てるんです。」

空気が凍りついた。

冷や水を浴びせられたという表現があるが、

そんな生易しいものではなく液体窒素漬けにでもされたようで、

マイナス30度下におかれたバラが砕ける時の感覚を体感した気がした。

今なら素手でクギが打てそうだ。

虎次郎が青い目をしていようが黒い目をしていようが

それは問題視していない。

だが、ということは日本人である桑原の息子がハーフ

現代の言い方のダブルであるということは奥さんが…ということで

そちらの方が桑原らしくなくショッキングというか意外というか、

反面ものすごーくありえるようで桑原が年若い金髪美人に

札束を握らせて侍らせている、人として許せない光景が目に見えるようだ。

芦原がのほほんと言う声も遠く聞こえる。

「そうか奥さんのジェニファーさんって金髪碧眼って書いてあったもんなー。

お母さん似なんだねー。」

佐為の嬉しそうな声が答える。

「はい〜。でも目の色以外はトラちゃん、じいじに似てます〜

古いお写真のじいじの小さい頃そっくりです〜。」

液体窒素漬けでガラガラと砕けた自分が

風に吹かれて微細な氷粒となって消えていくのを感じた気がした。

佐為と碁を打つ約束を塔矢アキラが果たせなかったのは生涯

これが最初で最後だった。

 

皆が正気に戻るのに数時間を要したようで気がつくと

佐為が時計を指さして騒いでいた。

虎次郎のところへ行く約束の時間なのだ。

頭を抱えて考え込むヒカルの肩を塔矢が気の毒そうに叩いた。

「覚悟を決めて行って来たまえ。佐為も楽しみにしているし。」

塔矢のジャケットの裾を噛みながらヒカルはうるうると涙を流す。

「一緒に来てくれよ〜。これから佐為と行動を共にするんだぞ。

お前だって無関係じゃないだろう。」

曖昧に笑って後ずさっていく塔矢にヒカルが脅しをかける。

「弟子に欲しいって言ってたって言ってやる!

きっと桑原先生なら面白がってOKするぜ!」

塔矢が金魚のように口をパクパクさせる。

「な…なんだって!君は、そんなでまかせが通るとでも思っているのか!」

佐為が目をクリクリさせて見上げる。

「トラちゃんにも師匠ができるんですか?」

塔矢より早くヒカルが佐為を抱き上げキープした。

「トラにも師匠がいたらいいよな〜?」

「はいです〜。」

はしゃぐ師弟をケンカに負けたネコのような目で見ながら塔矢は降参した。

「わかった!行くから、それは勘弁してくれ。」

3人が碁会所を後にする時も緒方は部屋の角で壁を向いて膝を抱きうずくまっていた。

芦原が何を言っても耳に入る様子もなく凍りついた表情をしながら

幽鬼のような声でぶつぶつ呟くばかりだった。

「ジジィ…。見てろよ。俺は負けん…負けんぞ…。パツキンの女なんて100人でも

1000人でもはべらせてみせるぞ…。俺は…俺は、負けんぞ…。」

「緒方さん…。張り合うのは碁だけにした方がいいですよ、勝目ないですから〜。」

ゲシッ、碁会所の中から芦原が殴られた音が聞こえた。

 

当たり前かもしれないが桑原邸は立派だった。

趣きもあるが質実剛健で無駄のない塔矢家より

無駄も贅もつくしている分だけ立派だった。

その白鷺城を思わせる建物の皇居坂下門を思わせる門前に

車を止めたヒカルは思わず溜め息をもらした。

「これ個人の家なのか?文化財とかじゃねーの?」

さっさっと車から降りた佐為が小さな手でペチペチ門を叩いて

「ト〜ラちゃ〜ん、あ〜そびましょ〜です〜。」

と声をかけると城門が重々しい音を立てて開いた。

中から佐為と同じくらいの少年が元気よく飛び出して来る。

顔立ちは青い瞳をのぞけば日本人で通りそうな少年で

元気のよさそうな無邪気な笑い顔は、どこをとっても

ヒカルとアキラが想像した桑原本因坊の幼少期とは似てもにつかない。

それより問題なのは後姿ではわからなかったが前髪だけが地毛なのだろうか、

金色に輝いていた…ヒカルそっくりに。

塔矢と顔を見合わせながら小声で語り合う。

(桑原本因坊って小さい頃はあんな顔だったのか?)

(君に似てるよ、気をつけたまえ。それにしても歳月ってむごいものだな…。)

(バカ言え!似てんのは髪の毛だけじゃないか…!

しかも明らかにワザと似せてんぞ、あれは!!)

さも気の毒そうに目を伏せる塔矢に、さらにヒカルはくってかかろうとしたが

佐為が虎次郎を連れて二人の元に駆け寄ってきた。

虎次郎は頬を紅潮させキレイな青い瞳を輝かせて挨拶した。

「はじめまして、わたくしが桑原虎次郎です。どうぞお見知りおきください。」

ペコと頭を下げられてヒカルの方が焦った。

「あ…いや…オレ、えーと、オレこそ進藤ヒカルです。」

まるでトンチンカンなヒカルが塔矢は大人として

とても恥ずかしかった。

 

                        H.15 11/27 

つづく

 

あとがき

そういえば…トラちゃんショックは別に奇をてらったわけでも

お笑いのネタでもないんですよね。

今回のシリーズで、とあるきっかけとして必要なんです。

なんたって愛がテーマですから〜っても

ぜんぜん色気ないですけど…(-^;)