遥かなる時を超えて 1
「運命の悪戯」
水色真珠
進藤ヒカルは車を降りてアパートを見上げると思わず溜め息をついた。
今までの、やるせない切ない溜め息ではなく
幸福で胸高鳴る想いのいっぱいに詰まった溜め息だった。
階段を上がって新藤という表札と下に小さく書かれた「佐為」の文字を確認する。
ここに住んでいることはわかっているのだから確認するまでもないのだが、
それも喜びのひとつなのだ。
今日は先日の約束で佐為を棋院に連れて行くことになっている。
というのも、ヒカルは佐為が保育園から幼稚園にあがるやいなや
才能があるからと拝み倒して弟子になってもらった。
そして今日は棋院で特訓することになっていたからだ。
師匠が弟子になってくれと拝み倒すなんてありなのかと周囲は言うが
そんなことヒカルにはどうでもいいことだった。
しかも、この師匠たるや進藤先生でなく「ヒカル」と呼ばせるんだと
駄々こねまくって周囲を無理やり承知させてしまった。正に常識外れである。
だから記者達に「型破り」だの「新手」だのと
その行動を揶揄されるのだと和谷に笑われたが、
それがヒカルのヒカルたるところなのだからしかたない。
チャイムを鳴らすと小さな足音がパタパタとしてドアが開いた。
「ヒカル〜こんにちはです〜。」
母をして切るのがもったいないと言わしめた艶やかで見事な黒髪に合う
子供らしからぬ雪白の肌をピンクに染めて大きな瞳を輝かせ
ヒカルに飛びついてきた佐為は、幼稚園のスモッグを着ているところをみると
園から帰ってきたばかりなのだろう。
母親も笑いながら放り出された黄色い帽子とバッグをフックにかけている。
「あれ?はやすぎたかな?」
戸惑うヒカルに神子は首をふった。
「いいえ、もう佐為は朝から棋院に行くのが楽しみでうるさくて…
助かります。」
ちょっと見は女子高生でも通りそうな若い母親は、
少しおっとりしているが芯の強さをうかがわせる瞳で微笑んだ。
病弱であったという佐為の父と何年も生きられないと承知の上で結婚し
死別した跡も籍を抜くことなく再婚もせず佐為を生み育てている。
並大抵の女性でないことは明らかだろう。
みんなが良くしてくれるから出来るのだと笑っていた…
が、確かに理解のある両親と同居しているとはいえ
その苦労は計り知れない。
ヒカルなど、その笑顔に圧倒されっぱなしだ。
佐為がプロになってタイトル料が入るようになれば
などという考えさえ下卑たことに感じるくらい
彼女は、のびのびと幸福そうに見えた。
そんな愛の形を見ると、この頃あかりの顔がちらつき気になる。
あいつは…?と思う気持ちを無理やり他へ向けようとしている自分に
情けなさを感じ、女って…と訳のわからぬ尊敬に似た気持ちを覚える。
これから仕事だという神子から佐為を託されて2人で車に乗って
ゆっくり発進させると後から子供の声が聞こえた。
「さ〜い〜ちゃ〜ん、あ〜そ〜ぼ〜。」
ピクリと佐為が反応する。
「あ!トラちゃんです〜」
ヒカルの背中を冷たいものが流れた。
第六感が告げる声にしたがって「虎次郎?」と問うと
佐為はニッコリ笑って頷いた。
佐為の家の玄関口で佐為が出かけたことを説明されたのだろう
小さな男の子が帰っていく姿がバックミラーにチラッと映った。
ヒカルは自分の心臓がバクバクいうのを聞いた。
「トラちゃんと幼稚園おなじなんです〜いつも一緒に遊んでいるんです〜」
保育園では相手がいなかったので嬉しいのだろう顔が輝いている。
「遊んでるって囲碁か?」
クリッと首を傾げると佐為はウンウンと頷いた。
「そうです〜ヒカルなんでも知ってるんですね〜」
また一人、天才の降臨を知って嬉しさと脅威に身が震える。
上には緒方や倉田をはじめ桑原さえ磐石の構えで居座っている。
下から、佐為に虎次郎が来る。
(
オレ、タイトルとれるかなぁ…)そう思いつつ笑みがこぼれる。
列強がしのぎを削るであろう時代に自分が居合わせたことが嬉しくてたまらない。
「なぁ、虎次郎って強いのか?」
チャイルドシートの佐為が大きく頷く。
「はい〜園長先生に2子置かせて勝ちます〜
私も9子置かせると危ないくらいです〜。」
園長先生ってアマ5段だろう…という突っ込みは声にならなかった。
まったく…嬉しくてたまらない。
顔も見たことのない虎次郎まで可愛くてたまらなくなってきた。
(
それにしても今時、子供に虎次郎なんて名前をつけるなんてどんな親だよ…
)心の中で思ったが、それ以上ヒカルは考えなかった。
それが後々、大問題になるとも知らずに。
棋院につくと玄関に存在感のある影を見つけてヒカルは頭を抱えた。
(
ま〜た、いるよ。)かといって知らん顔して通ることは出来ない。
いまや日本棋院副理事長塔矢行洋だ。
ヒカルがうっかり塔矢アキラに口止めしなかったため
アキラから佐為のことを知るや
いきなり帰国して佐為と一局うつと中国チームとの契約を切って
副理事長に就任した。
あいかわらず回りの驚きなど気にしないヒカル泣かせな人物だ。
最近では打つのは佐為とばかりでヒカルの動向を
どこで調べているのか佐為を連れて来る日は玄関で張り込んでいる。
(
忙しいはずなのに仕事をどうこなしているんだか…。)ヒカルは溜め息交じりで思う。
もちろん二人の対局は興味深く楽しみだ。
だが佐為の小さな手から繰り出される妙手に相好を崩している塔矢行洋など
どこの好々爺だろうと疲れを覚える時があるし
厳しく指導したいと思っているヒカルには、
すぐオモチャ菓子なんかを出してくるのが好ましく思えない。
だいたい孫もいないくせにオモチャ菓子を用いるなんて姑息な手を
どうやって考え出したのか非常に怪しいものがある。
なにより、あんな怪しげなオモチャ主体の菓子など歯に悪いに決まっている。
「なぁ…後でポケモンセンターでピカチュウどら焼き買ってやるから
塔矢副理事についていくなよ。」
佐為が嬉しそうに跳ね回りながら頷くのを満足して見つめるヒカルだが
傍から見れば塔矢行洋とまったくの同類である。
自動ドアが開くなり厳しい顔つきの塔矢副理事が詰め寄ってくる。
「やぁ、進藤くん。」
「あ…ど…どうもです。」
だが、ぎこちなく頭を下げるヒカルを塔矢副理事の目は見ていない。
「こんにちはです〜」
深々と頭を下げる佐為の傍らに腰を落として目線を合わすと
すでに好々爺モードに入っている。
「今日も一局付き合ってくれるかね。」
「塔矢副理事。そういいながら、すでに手をひいてるあたり
誘拐犯みたいですよ。」
批難いっぱいの眼差しのヒカルに往年の鋭い眼力が向けられる。
「それは心外だね、進藤くん。」
「とにかく佐為はオレの弟子です。
それに母親から託された責任がありますから。」
自分から弟子にとったにしても、このさい早い者勝ちである。
通りかかる人々の呆れた視線を他所に二人は火花を散らすが
佐為の気持ちを第一にという暗黙の了解があるので
結局、判断は佐為に託された。
ここで本来ならピカチュウどら焼きの布石が生きるのだが
反則な盤外からの一手が勝負を狂わせた。
塔矢副理事とヒカルは佐為が居た場所を唖然として見た。
どちらに付いて行くか問おうにも
さっきまで、そこにいたのに影も形もない。
回りを見わたしても姿がない。
ヒカルは貧血に似た感覚を味わって膝が震えた。
その膝を励まして慌てて棋院内を探すため駆け出した。
和谷と伊角は関西棋院から手合いにきていた社と偶然会い
これ幸いにとお互いの棋譜の検討をしていた。
その横を進藤ヒカルが駆け抜けていく。
社は飲んでいた缶ジュースを思わず吹き出した。
「なんや進藤!どうしたんや?!」
だが和谷と伊角は落ち着いていて肩をすくめただけだった。
「ど〜せ、また佐為がいなくなったんだぜ。」
「いつものことだから気にしなくていいよ。」
笑う二人だが、初めてヒカルのパニックに遭遇する社は驚きを隠せない。
「佐為って例のチビやろ?天才やってな、関西棋院でも有名や。
ほんまに探さんでいいのか?!」
うんうんと和谷と伊角はうなづく。
「アイツ可愛いから目立つんだよ。
一人で外へ行こうとしたり
ヘンなヤツが連れてたら誰かが絶対気がつくって…。」
「騒ぎにならないということは棋院内にいるし
連れてる人が皆がよく見知った人だってことさ。」
この棋院内の常識をヒカルだけは知らなかった。
各階を駆け巡り自販機の下や花瓶の中、座布団の下まで
引っくり返し探しまくり一階の喫茶店「遊仙」を通りかかって
特徴的な聞き覚えのある笑い声に、やっと足が止まった。
ふと店を覗き込むと件の人物の前にあんみつをパクつく佐為が見えた。
「こらー!ダメじゃないかー知らない人に付いて行っちゃあ!」
叱るヒカルに先ほどの笑い声の名残かニヤニヤとしたまま桑原本因坊は言った。
「知らない人じゃないものなぁ。なんじゃ進藤。
知らんのか、佐為ちゃんはワシの息子と仲良しなんじゃぞ。」
また、そんな見え透いたウソをと思いヒカルが佐為を見ると
佐為は大きくと頷いていた。
「そうです〜。じいじは、トラちゃんのお父ちゃまなんです〜。」
しばらくヒカルは立ったまま気を失っていたようだった。
気がつくと頭に桑原のものだろうか草履がのっている、そして赤い夕日がさしていた。
さんざん桑原本因坊や塔矢副理事と碁を打って満足した様子の佐為は
オモチャ菓子のオモチャを握りしめヒカルの横のソファで寝ていた。
思わずヒカルの目から滝のような涙が流れる。
確かに今時、子供に虎次郎なんて時代錯誤な名前をつける人間は
日本広しとはいえ本因坊である桑原くらいなものかもしれない。
それにしたって息子って…?
気絶寸前に聞いた
「ギネスには載っとらんから、もう一人くらいがんばるかのぉ。ひゃひゃひゃ…」
という声が蘇る。
しかし若者として負けましたとは言いたくない
そう思うヒカルだった。
H
.15 10/3つづく
あとがき
歌舞伎俳優で人間国宝の中村富十郎、
七十四歳でパパになんてありましたから
桑原先生ならありかななどと…
いえ、本当のところは佐為ちゃんにも同じ歳のライバルが
欲しいと思っただけです。
気絶した人の頭に履物が乗っていることが私の話では
よくありますが、嫌がらせではありません。
意識のない人の頭に履物
(草鞋)を乗せておくと治るという魔よけのお呪いからです。
続くったら続くです
(^−^;)