「棋院の怪異」
忘れ物をして取りに戻ったヒカルは
思わず目の前の棋院を見上げて喉をゴクリと鳴らした。
院生も棋士たちも帰った後なのだろう、暗い棋院は昼間とは違う様相を呈していた。
オバケは怖くない。佐為に憑かれて学んだが全部のオバケがそうなのだろうか?
優しい明子、マヌケな菅原顕忠、自分がオバケだとさえ気づいていない芦原…
彼らは特別なのではあるまいか。
闇を内包し目の前のあんぐりと口を開けた物の怪のような棋院の姿に
微かな不安が大きく膨れ上がった。
無口な警備員が入り口を開けてくれた。
俯いて帽子の影の顔はわからない。
若いような年老いたようなつかみ所のない男は
ホールを歩き始めたヒカルの背中に声をかけた。
「お気をつけて…」
何を?と問おうと振り返ると彼はいなかった。
閉じた自動ドアがロックされた証にチチッと鳴いただけだった。
闇の中、警備員室に繋がるインターフォンの赤いランプだけが隻眼のように瞬いていた。
非常灯だけの館内は耳が痛くなるくらい静かで、
いつも研修を行う大広間がいやに遠く思える。
気持ちを奮い立たせてホールの端のエレベーターへ向かうと、
まだボタンを押していないのにドアが開いた。
薄気味悪い思いを抑えて乗り込むと、閉じようとしたドアの向こうの闇の中で
苦しげな深く長い呼吸のような音が迫って来た。
空調の音だ。そう思いながら必死にドアを閉じるボタンを連打すると
ゆるゆると閉まりかけたドアは一瞬動きを止めてから完全に閉じた。
狭いエレベーターの中の自分の背中に視線を感じる。
暗い隅に何かいるようで振り向けなかった。
ふしゅ、ため息のような音と共にヒカルが押していない階で
エレベーターが止まり扉が開いた。
見通すことの出来ない真っ暗なフロアが
エレベーターの微かな灯りに照らし出される。
この空間にエレベーターを呼ぶ人がいるとは思えない。
だがヒカルは確かに見てしまった、観葉植物が人が触れたように葉を揺らすのを。
半分泣きながら忘れ物をしてしまった自分を呪った。
そして佐為のバカ〜!心の中で叫んだ。
せめて付いてきてもらえれば良かったのだが行洋と対局中なのだ。
エレベーターが大広間の階につくとヒカルは左右を見回し廊下を歩き出した。
そうっと歩くヒカルの耳に不思議な音が聞こえてきた。
パチリ、パチリ。
間違えない、碁を打つ音だ。
自分以外にも誰かいる。
ホッとして大広間にかけこんだヒカルは愕然とした。
静まり返った大広間には当然だが碁盤も碁笥も片付けられて何もない。
隅にヒカルが忘れた学校の宿題のノートがあるだけだ。
ヒカルは我ながら、よく失神しなかったと自分で自分を誉めた。
ノートを引っつかむと廊下に飛び出した。
が、そこで動けなくなった。
さっきまで何もなかった壁に大きな古びた紙が貼ってある。
血がたれたような文字で「悪鬼」と書いてある。
何の冗談だ。心で呟くヒカルの全身から汗が噴出す。
激しい動悸に息遣いも荒くなる。
ゼーハーゼーハー。
ゼーハーゼーハー。
自分と違う息遣いがかぶる。
気のせいだと否定しても否定しきれない。
そっと後ろを振り返ると真っ白な能面のような顔が眼前にあった。
「ぎゃーーーーーーーー!!!!!!!」
真っ赤な恐ろしい口から激しい叫びが上がる。
ヒカルも同時に叫んでいた。
飛びかかってくると思い身構えたヒカルだったが
気が付くと相手は震えながら頭を抱えて座り込んでいた。
「あれ?お前は菅原顕忠―!!今までのことはお前の悪ふざけかー!」
思わず頭にきて菅原顕忠の頭を丸めたノートでヒカルは思いっきり引っぱたいた。
「うわ〜!貴様は、いつものクソガキ!!
貴様かー!ワシの後をペタペタつけてきたり
誰も入ってないはずのトイレの水を流したりしたのは!」
菅原顕忠の言葉にヒカルは激昂した。
「お前こそ、ヘンな息遣いで追いかけてきたじゃないかー!
ボタン押してない階でエレベーター止めやがってー!」
言ってから、やった覚えのないことを言われ
お互いに鳥肌が立っているのに気が付いた。
二人は敵同士であることを忘れピタリとくっつきあった。
「ワシは棋院を我が物にするために自分の名前を書いた紙を貼っていただけだ。」
さっき壁に貼ってあったのと同じ紙を何枚も持っていた。
よく見れば汚い字で悪鬼
(アッキーというルビ付き)と書いた紙と参上
(同じくサンジョウというルビ付き)と書いた紙の束だった。それを貼ったからといって何故に棋院が自分のものになるのかということは、
あえて言わないヒカルだった。
「菅原顕忠
(すがらわのあきただ)だから悪鬼(アッキー)なのか?」哀れむように言うヒカルに菅原顕忠は嬉しそうに頬染めて頷いた。
ヒカルは顔をしかめて目をそらした。
嫌な相手だが一人よりは心強い、打算のみで二人は出口へ向かって歩き出した。
廊下を歩いていくと細く戸が開いている部屋があった。
二人は顔を見合わせて戸の隙間ににじり寄った。
(
お前見てみろよ。どうせ同類だろう。)(
オバケでもこわいものはあるのだ。貴様こそ人間の勇気を見せてみろ。)ヒソヒソと話す二人は部屋の中の声にお互いの口を押さえた。
(
人を食った・・・。 味はいいな。 ゲテモノだろう。)話し声がする。あまり楽しい話には思えない。
真っ暗な部屋の中を恐る恐る覗くと何かをとり囲む人影が見えた。
クチャクチャと耳障りな咀嚼音がする。
一人が気配を察したのか振り返った。闇の中ほのかに顔が見える。
(
座間先生?!)だが、その口からは黄色い手がダランと伸びていた。
ぎゃーーーー!!ヒカルと菅原顕忠は声にならない絶叫をあげて気を失った。
ヒカルは恐ろしい夢に追われて目を覚ました。
都合よく翌朝とか自分のベッドでとかの目覚めを期待したがムダだった。
何かを咥えた緒方が覗き込んでいた。
いつものタバコではないことは赤い色と口の動きでわかった。
「ひゃひゃひゃ、緒方君。その子にもあげたらどうかのぉ。」
「ふ…。食うか?」
差し出されたのは赤い棒の先に付いた練りあめのようなものだった。
起き上がってみると座間は手の形をしたグミを伸ばしたり縮めたりし
桑原がニヤニヤしながら粉の中に飴を突っ込んでは舐めていた。
「座間君の食べているグミの方がいいかのぉ?」
いったい灯りのない部屋で
3人は何をしていたのか、普段から仲がいいとは言い難い面子で。
「見ればわかるじゃろう。菓子を食うておったのじゃ。」
聞いてもいないのに答えられてヒカルは桑原の顔をマジマジと見た。
時折、見かける本因坊といわれる老人に間違いない。
ヒカルのシックスセンスが、そう告げていた。だが…。
「き…貴殿たちの邪魔をするつもりはなかったのだ。というわけで、失礼仕る。」
菅原顕忠は既に逃げ出しかけていた。
おいて行かれまいとするヒカルも席を立ったが、
何故か先に逃げ出した菅原顕忠の方が捕まった。
「ふん、お子様の時間は終わりだがアンタは大人だ。付き合ってくれるだろう。」
そろそろと傍を通り過ぎると緒方に肩を捕まれた菅原顕忠が縋るような目で見ていた。
その目を振り払うようにヒカルは戸を開けた。
ガリッガリッ、背後で何かを齧る音がする。
「菓子ばかりなく。違うツマミもほしいしなぁ。」
座間の言葉に嬉しそうに桑原が頷いた。
「いたずらのお仕置きもせんとなぁ。こんな紙を貼りおって…ヘタクソな字じゃ。」
乱暴に回収したらしい破れた紙の束が投げ出された。
その間に、かろうじてヒカルは廊下へ避難したが腰が抜けてしまった。
部屋の中からは菅原顕忠の魂消える悲鳴を最後に何も聞こえなくなり
他に出入り口などないのに人の気配さえしなくなっていた。
静まり返った空間でヒカルは、ただただ震えていた。
「あれ?進藤君?進藤君も忘れ物?」
恐怖が支配する空間に間延びした声が響き和やかさが満ちた。
ヒカルが振り返ると福井雄太が立っていた。
「フク!助かった!今さ、桑原先生に菅原顕忠が食われて…緒方先生と座間先生が…」
ことを説明しようと焦るヒカルをフクはのほほんと笑った。
「やだなー。今、桑原先生は北海道だよ。緒方先生は韓国。座間先生も京都だよ。」
ヒカルも手合いや講演のスケジュールを思い出した。
それじゃあ、なおさら今見た3人は何だったのだろう?
フクはヒカルの背中をペタンと叩いた。
「寝ぼけてるの?早く帰った方がいいね。行こうよ。」
そうか。オレ寝ぼけてたんだ。
ヒカルはフクに導かれるまま棋院を出て家に帰った。
そして翌日、学校が終わって棋院での研修に顔を出すと
新しい院生が入る情報を聞いた。
その名は…。
つづく
H
17.5/19 水色真珠次回予告
菅原顕忠はどうなったのか?!
怪しい桑原は本当に桑原なのか?!
(
これは間違えなく当人でしょう*^m^*)新しい院生とは?!
謎が謎を呼ぶ!!…というと聞こえはいいが
長くなりすぎたので区切っただけ…
(^-^;)>