平成幻想異聞録3
水色真珠
まだ朝は薄明かりの中にあった。
障子の向こうは見事な日本庭園。
白々と明けはじめた朝の光をはじく枯山水の砂紋、かすかに蹲踞の水音が遠く響く。
その静かな風景の中で盤上の戦いは、あたかも火龍と水龍が
食らいつき合い絡み合い激しくぶつかり渦巻きつつ天上高く翔け上がるようだった。
塔矢行洋の大太刀のように力強く重い一手が切り込む、
佐為の優美でしなやかな一手が答える。
佐為の細太刀のように軽やかで切れ味鋭い一手が切り裂く、
行洋の強力で堅固な一手が答える。
行洋と佐為の背筋が凍るような美しく恐ろしい一手一手に
ヒカルとアキラは、いつかしか魅せられ全てを忘れ見入っていた。
行洋の振り下ろす衝撃だけで周囲の全てを薙ぎ倒し平伏させる大太刀を、
まともに受ければ折れてしまいそうな佐為の雅な美しい細太刀は
受ける力を紙一重の差で軽やかにすべり流し絶妙の切りかえしを繰り出す。
どちらにとっても、厳しさは喉の渇きさえ忘れるほど危うい
首筋に当てられた白刃の如きもの。
次々と繰り出される、極限まで研ぎ澄まされ無慈悲なほど強力な一手と
究極まで高められたからこその舞うように優美な一手が
納曽利
(双龍舞)のように高め合い受け答え共鳴る。その荘厳壮麗な様は見る者に呼吸することさえ忘れさせた。
互角に見えた戦いが大きく動いた。
軽さと速さに勝る佐為の細太刀が少しづつ行洋の身を裂いていく中
行洋の破城鎚のごとき一手が佐為の頭上に振り下ろされたのだ。
その瞬間、行洋だけでなくアキラもヒカルも目を見開いた。
佐為の細太刀は見かけによらぬ強靭さで強く重い一手を刃こぼれもせずに受け止め
返し刀は行洋の身中に食い込んだ。
「負けました。」「ありがとうございます。」
行洋が頭を下げると陶然とした表情の佐為も答えた。
ようやくヒカルとアキラも緊張で乾ききり痛む喉に空気を入れることを思い出す。
「すごい…。」感極まったようにかすれた声をあげるアキラにヒカルも頷いた。
朝早く起こされた時は朝飯前なのに…と正直付き合いきれない気持ちがあったが
そんなものは吹き飛んでしまった。
なんだか一日が終わってしまったような充実感と疲労を覚える。
改めて高みにいる者であることを実感しつつヒカルは佐為を見た。
佐為の瞳は子どものように輝いていた。
(
あ…!)気が付いたヒカルが慌てて佐為の口を押さえるが遅かった。「もう一局!もう一局打ちましょう!」身を乗り出して言う佐為。
負けた者が悔し紛れに言うのならわかるが
佐為の場合は勝ってノーダメージのままの勢いで迫ってくる。
本人はよくても付き合うほうは、たまらない。
「佐為!もう朝飯の時間!メシったらメシなの!ちゃんと食わないと大きくなれねぇぞ!」
最後は脅し文句で締める。こうでもしないと佐為の碁は延々続いてしまうのだ。
だが心配は無用だったかもしれない。
なぜなら行洋は死力を尽くし全てを出し切ったはずの対局の後なのに、
もう打ちたくて子どものように目を輝かせている佐為を見て
微笑ましく思いつつも自分も年甲斐もなく心が弾んでいるのを感じていたのだ。
もし佐為が言い出さなかったら自分が言い出しかねなかった。
ヒカルに叱られて子犬のようにシュンとしてしまった佐為に
うずく心を抱えた自身の姿をだぶらせながら喜びが溢れる。
ついに神の一手へ羽ばたくために必要な自分に合う対の翼を見出した。
今はまだ相手の翼の方が大きい、さらに自分を磨いて完璧な双翼になりたい。
行洋は強く思っていた、
もっとも行洋の感慨をよそに、すでに3人は朝ゴハンで盛り上がっていたが。
「ヒカル!おみそ汁を音を立ててすすってはいけません!」
「うるさいなー!母さんみたいなこと言うなよ!」
「いや、進藤。たしかに行儀が悪い。佐為さんの言う通りだ。」
「お前…なんでも佐為の味方してないか?」
「とうぜんの作法ですよ。ねー?」
「そうですねー。佐為さん。」
「ねーじゃねぇ!」
少しだけ行洋の額に怒り皺が浮かんでいたのを誰も気が付かなかった。
とりあえず、名所旧跡巡りをするという塔矢親子と別れ
旅館を出るとヒカルと佐為は商店街へ向かった。
「なー。御所?のまわりとか見なくていいのか?懐かしいんじゃないのか?」
ヒカルの問いに佐為は首をふった。
「少し見ましたよ。でも…あまりに様変わりしていて…。
かえって寂しかったです。」
「ふーん、そんなもんなのか?。」
因島や本妙寺にも連れて行こうと思っていたヒカルは
やや思惑が外れてしまった。
考えてみれば確かに変わりし果ててるだろう虎次郎の生家や
墓なんて悲しいだけかもしれない。
あれこれ思いながら、隣の佐為を見てヒカルは立ち止まった。
上から下までマジマジ見つめて、眉間に皺をよせる。
「なー、ここじゃあ着物も悪くないけど東京じゃあ浮きまくるぜ。」
「あの者…いえ塔矢元名人も桑原本因坊も着物なことが多かったではないですか。
なぜです?」
「あのなー、じいさん…いや年寄りはいいかもしんないけど。
お前は
16歳なんだからヘンだって!なんか今風なの買いに行こうぜ!」ヒカルは戸惑う佐為の手を掴むと引きずるように歩き出した。
さっきからヒカルと店員は並んで難しい顔をして佐為を眺めていた。
「なんつーんだろう?彼、美形だしスタイルもいいんだけど。
この服は…イケてないっていうか合わないわね。」
「あぁ…コーディネートはバッチリなんだけどなぁ。」
パンク風なジーンズの店である。
ジャラジャラ太い鎖がついた目が痛くなりそうな色の、
新品なのに破けて継ぎが当ててあるという
佐為には到底理解不能な服ばかり色々と着せられている。
「あ…あの〜、私は着物でいいです〜。」
ほとんど半泣きで言うと、ついに店員は諦めてくれた。
「けどさー、本当に着物っていうのはヘンだぜ。なーんか考えないと。」
ヒカルはパンクこそ諦めたが、完全に諦めたわけではないようだった。
昼ゴハンに入ったラーメン屋での京風ラーメンにはヒカルも佐為同様驚いた。
「うわ〜!味があるのかよ、これで!」
だが、一口食べると疑惑が感激に変わる。
「いつものとは、ぜんぜん違うけど、これはこれでウマイ!」
佐為もニコニコと頷く。
「そうですね。とっても美味しいです。ラーメンとは、このような食べ物だったのですね。」
「うんうん、東京でも食べようぜ。東京は東京でおいしいぜ!」
猛然と食べるヒカルに佐為がおどおどしながら言った。
「あの〜着るもののことですが…、ほら、どうせでしたら、すぅつとやらはどうでしょう?
あれなら、いつも着物の者が着てもヘンではないのでしょう?」
佐為の感覚からすればスーツも面妖なものに思えるのだが
行洋や桑原もスーツを着ることがある。
だから自分もと思ったのだ。
ヒカルもポンと手を打った。
「なるほど!その手があったか!どうせプロになりゃいるしな。」
京風ラーメンの出汁の利いたスープを満足げに飲み干すとヒカルは
佐為を引っ張ってラーメン屋を飛び出した。
数時間後、スーツ専門のチェーン店の扉を押して出てくる二人の姿があった。
なぜか、お揃いのスーツ姿で。
「2着買うと半額なんて面白いなー。」
「そうですね。」
きっちり着込んだ佐為と裾や袖を折り返しラフに着崩したヒカルは
もともと一人でも人目をひく外見であるのに対照的であるがゆえに
よけいに目立った。
道行く人々が振り返る。年頃の少女達はアイドルでも見るように大騒ぎする。
だが持ち前の鈍さで気が付かないのは、二人の共通項だ。
「でも、やっぱスーツはアツイなぁ。普段着もいるぜ。」
しかし短パンにTシャツも似合いそうにないし…考え込むヒカル。
自分の着るのと同じようなものを着せようとするから無理があるのだとは思い至らない。
「あ…!ヒカル〜!私、あれがいいです〜!」
佐為がショーウィンドを指さした。
マネキンが白い丈の長いふんわりとした長袖のオーバーシャツに
ストレートのスラックスをはいている。
「女のじゃん?」
ヒカルがげんなりした顔で言うと、ガラスを拭いていた店員がふりかえった。
「そんなことありませんよ。よろしければお見立てしましょうか?」
にこやかに言われると断りにくい。
見るだけでもと入ると、こじんまりした店は意外なほど豊富な品揃えで
ヒカルにはイマイチだが、どれも上品で良質なものらしい。
店員は佐為を引っ張っていくと楽しそうに色々と着せ替える。
もしかして客がいないんで遊ばれてるのかもとも思ったが
パンクより似合っているようなので黙っていた。
そのうち店頭のものよりシャープだが緩やかなサイズの白いオーバーシャツに
スラックスを着せられて佐為が連れてこられた。
「いかがですか?良くお似合いですよ。」店員の言葉はウソではなかった。
なんとなく狩衣を思い出す。
「暑くないかな?」「お袖を緩く捲り上げればよろしいと思いますよ。」
似たようなものを数着見繕ってもらって家に送ってもらうことにした。
時間になったのでヒカルと佐為は待ち合わせ場所の京都駅で
塔矢親子と落ち合った。
夕食はヒカルの提案で寿司ということになった。
だが、連れてこられた寿司屋で塔矢親子は、いささか渋い表情を隠せなかった。
そこは、まさか京都にあるとは…と思わざるを得ない
いわゆる回転寿司だった。
「あ〜、ここは和谷や伊角さんと入ったことのある寿司の店ですね。」
佐為にとってヒカルが入ったことのある所が知っている全てなので
今の時代の寿司は回るものだと信じきっている。
虎次郎の頃は屋台の立ち食いだったので高級のイメージもない。
しかし塔矢親子にしてみれば邪道この上ない。だが…。
「佐為が面白がってたから絶対連れてきてやろうと思ってたんだ。」
ヒカルの言葉に、すでに店内を覗き込んできゃわきゃわと喜ぶ佐為を見ると何も言えない。
黙ってヒカルと佐為について店内に入った。
佐為はイスに座ると前を流れる寿司の皿をきょろきょろ見回し大はしゃぎだ。
「あー!あれ!あれ、なんですか?見たことないです。
でも虎次郎の頃と変わらないものもあるんですね。」
珍しいもの懐かしいもので大喜びしている。
ちょっと連れとして恥ずかしい思いの塔矢親子は声もない。
「なにがいい?大トロか?オレがおごるからさ。塔矢もじゃんじゃん食えよ。」
一応、礼儀としてアキラは口の中でごにょごにょと礼を言ったが
ヒカルの耳に届くものではなかった。
行洋は大人らしく覚悟を決めたのか刺身の盛り合わせを肴に安い酒を飲んで、
ひたすら時間が過ぎるのを忍耐強く待っていた。
「ヒカル!ヒカル!その赤いのはなんです?」
ヒカルはマグロの皿を取ると佐為の前に置いた。
「昔はマグロってなかったのか?」
「マ…マグ?魚なんですか?」
目を白黒させる佐為が面白かったのか寿司屋の店長は奥から大きな魚を出してきた。
「にいちゃん、マグロ見たことないんか?ホレ、これだよっと。」
そう言いながら見事な手さばきでさばいてみせる。
佐為は、しきりと感心したり驚いたりしながらマグロの寿司を口に入れた。
が、とたんにジタバタと苦しみだす。
慌ててヒカルが水を飲ませると目に涙を浮かべている。
「マグロって、こんなに辛いものだったなんて…。」
「あ…ワサビ。ダメだったか?ごめんごめん。」
笑うヒカルに恨みがましい目の佐為。
「辛いのはマグロじゃなくて中に入ってるワサビだからサビ抜きのなら大丈夫だぜ。」
「虎次郎が食べてたコハダとかサバがいいです。」
ヒカルはお子様用の皿を選んで佐為の前に並べてやる。
恐る恐る口に入れた佐為は今度こそは満面の笑みを浮かべる。
「美味しいですー!」
うんうん、と頷きつつ自分も寿司を口にするヒカルの腕をアキラがつついた。
「進藤…。佐為さん、秀策のことを見ていたように言うんだな?」
行洋も怪訝そうな顔つきで見ている。
ギクリとしたヒカルは喉につかえかけた寿司を無理やり飲み込んだ。
「だ…だから…、そう思い込んでるからだってー!」
あはあはと誤魔化し笑いをするヒカルは不審この上なかったが
常識人であり現実主義である塔矢親子には追求する術はなかった。
微妙な空気を読めない佐為は次々と流れてくる珍しいものに目を奪われていた。
「ヒカル〜面妖なものが〜!あれも寿司なんですか?」
見るとお子様皿がたくさん出たせいだろうか。ジュースやデザートが流れてくる。
ヒカルは悪戯心を出してひとつの皿をとった。
「食べてみろよ!こんな魚見たことないだろう?」
案の定、佐為は目をまん丸にする。
「えっ?えっ?これって魚なんですか?海で泳いでいるんですか?すごいですねぇ!」
塔矢親子の目が非難がましい視線を送ってくる。
「そうそう、クラゲと似てるだろう?仲間なんだぜ。」
ほぅ、と佐為が溜め息をつくと、それはプルプルと震えた。
「まだ、生きていますよ!」
佐為が驚いてたじろぐと、ますます面白くなったヒカルは
プラスチックのスプーンをつきたてた。
「食べてみろよ。」
だが佐為は気味悪がって口に入れようとしない。
「牙の生えた口で噛みついたりとかしませんか?」
「大丈夫だって!ウマイからさー!」
請合うヒカルの言葉に佐為は素直に件のプリンを口に入れた。
口に入れたとたん佐為の目がうるうると潤んだ。
「えっ?お前こういうのもダメ?」
焦るヒカルに佐為は泣きながら首をふる。
「あっま〜いです〜おいしいです〜。」
子ども向けの安いゼラチンプリンにとろけそうな顔で感激の涙を流す。
とんでもなく綺麗な顔立ちの美形である佐為なのに幼子のように愛らしく可愛い。
碁を打っている時との落差に塔矢親子は頭を抱えて悩まざるをえなかった。
そして棋士としての強さを知っているため信じたくないような光景ともいえた。
佐為はプリンばかりを5つも食べた。
これには、さすがのヒカルも見てるだけで胸焼けがしたが、
本人は大満足であったらしい。
さすがに満腹になってヒカルが食べ終わるのを待つだけとなった。
が、その間も珍しいものを探して佐為の目はきょろきょろと辺りを彷徨う。
異変に気づいたのは行洋だった。
「進藤くん。佐為くんの様子がおかしいが…?」
なんとなく首がグラグラしている佐為をヒカルがのぞきこむと
目を回しているのがわかった。
「佐為…回転寿司だからって自分も目を回さなくてもいいんだぜ…。」
物珍しくて皿が回るのを律儀に目で追っていたせいだろうか。
呆れつつ三人は目を回した佐為を抱えて店を出ると、
ようやくの思いで東京行きの新幹線に飛び乗った。
ヒカルは佐為の棋士としての顔と天然そのものの普段の顔、
両方を知ってしまった塔矢親子の反応を心配したが二人も多少の葛藤の後には
佐為という人間を理解してくれたのか温かく接してくれた。
なんとかなりそうだ。ヒカルは、これからを考えて弾む心を押さえられずにいた。
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.15 10/26END
あとがき
行洋さん本当にいいんですかね?。
これが生涯をかけたライバルか…って情けなくならないくらい
佐為ちゃんの碁は凄かったってことですね…
(^-^;)>