遥かなる時を超えて
9「天と神の交差路」
水色真珠
耳が痛くなるような静寂の中にあったと思っていたのに
とおりゃんせ、とおりゃんせ。
幼い声がヒカルの耳をくすぐっていた。
(
佐為?虎次郎?)閉じていた目を開けると、いきなり感覚が開いた。
素足で踏む土の温かでざらついた感触、肌をなぶる生暖かい風、
回りがうっそうとした茂みで人工的なものが一つもないことを誇示する
昼の草いきれの名残のような緑の匂い、
樹海のような濃密な空気。
目の前にかざした自分の手のひらも見えぬ深い闇。
高い梢の鳴る音に怪しいチィチィとかククッという
虫とも鳥ともつかぬ鳴き声。
そして…幼い歌声。
(
夢…か?)しかし、さすがのヒカルも現実離れしていると思いつつ、
こうまで感覚つきの夢は初めてで確信がもてない。
風が回りを取り囲む気配のようで、葉の生い茂った木々の隙間から
吹く風の気まぐれで覗く都市にはありえない星々も
物の怪の目のようで鳥肌が立つ。
ざわめきながら高い梢から目を光らせて見下ろす物の怪の無数の目、
回りを取り囲む黒い影の妄想に立ちすくんだヒカルの背中を
再び幼い声が撫ぜた。
とおりゃんせ。とおりゃんせ。
ここはどこの細道じゃ。
天神様の細道じゃ。
ちょっと通してくだしゃんせ。
御用のない者とおしゃせぬ。
この子の七つのお祝いにお札を納めに参ります。
行きはよいよい。帰りは怖い。
怖いながらも、とおりゃんせとおりゃんせ。
年の若いヒカルはTVゲームこそ詳しいが昔の歌で遊んだ経験などないから
懐かしさもなく、よく横断歩道で聞く意味不明な薄気味悪い歌でしかない。
でも声の主はわかったので安堵した。
(
佐為?)小さな小さな手がヒカルの手の中にするりともぐりこんできた。
見ると佐為の体は蛍のような輝きを帯びてはいるが、
いつものクリクリした大きな瞳で嬉しそうにヒカルを見上げている。
だが、いつもの無邪気なだけの顔ではない、懐かしい面影を宿していた。
なぜかヒカルは、それを不思議とも思わず受け入れ
平安時代の囲碁幽霊といる感覚になっていた。
「行きましょう。」
どこへと問う間もなくヒカルの手がひかれる。
足の裏に当たる土の柔らかい感覚と小石の痛さ、小枝や葉っぱの異物感に
よろめくように佐為について行くと平地なのに本当に山の中のように建造物がなかった。
「山の中じゃありませんよ。ここは大路。『めいんすとりいと』とやらです。
碁盤の目のようになった都の中央をはしっています。
京の都も夜は闇が深く、こんな感じでした。」
やがて注連縄が張られた鳥居につき、巨大な社が見えた。
(
神社か???)「天神様です。」佐為の言葉にさっきの歌を思い出し
疑問でいっぱいのヒカルは足を止めた。佐為がジタバタひっぱるが動かない。
(
だからって、どうして行くんだ?なんかあるのか?)佐為は悪戯っぽく笑った。
「神道では人は死後、祖霊をへて神になるんです。」
(
神道?どっかで聞いたような…?あ…オレの苗字じゃん。)ヒカルの考えが可笑しかったのか佐為はクスクスと小さな袖口を合わせて笑った。
「ここは島根の佐為神社。私の名前の由来となった、そこの神域です。
普段は見ることも触れることも入ることもかなわぬ神の領域。」
不思議な言葉に煙に巻かれて佐為に導かれるように鳥居をくぐろうとして
強大な力にたじろいだ。
目の前の巨大な社殿より遥かに大きな存在が中にいる。
まるで慈しむような優しい気配なのに力の大きさに圧倒され、恐れ震えがくる。
拝殿で思わず膝をついた。本殿を仰ぎ見ると月のような淡い輝きを帯びた人影があった。
若竹のように伸びた背筋の凛と美しい烏帽子と狩衣姿だった。
淡桜色を帯びた白い肌を流れる星を纏った夜空のような艶やかな黒髪。
袖口からのぞく花の蕾のような柔らかで優美な指先。
だが白いかんばせの桜花を思わせる唇から通った鼻筋をたどり
黒曜石の瞳へと辿ることが出来ない、
見ないでもわかるくらい想い焦がれた姿なのに。
顔が上げられない。出来るなら這いつくばって頭を床に擦り付けたい。
人は死後、祖霊をへて神になる。
隣に座る小さい佐為から、さっき聞いた言葉が蘇る。
(
お前は…神になったのか?)ヒカルは相手の持つ力の強大さに屈しそうになりながら力を振り絞って考えた。
「また打って下さいますか?」
小さな佐為が嬉しそうに言うと、長い黒髪が肩を流れる音がして頷いたのがわかった。
天の楽の音を聞いた時のような快さなのではないかと思われる衣擦れは
彼が碁盤の前に座った音なのだろう。
耳が自分の鼓動で破れそうなのにヒカルは音だけで
一挙一動がわかるほど、その動きに集中していた。
石を置きながら小さな佐為が問いかけた。
「あんなに会いたがっていたのにお話ししないんですか?」
碁盤の上に石でないものがおかれた音がした。
ぽつ、ぽつり、数が増えていく。
美しい輝きを放つ、それは涙だった。
出会ったばかりの頃に久しぶりの碁盤を前に流したのと同じ輝きは
佐為の心が変わらない証だった。
ヒカルは顔を上げた。
「佐為。」
ヒカルの言葉に滝のように涙して声を詰まらせる様子には威厳の欠片もなかった。
身が震えるほどの強大な力は同じなのにギャップの激しい神だと
思わずヒカルは笑い出していた。
そんなヒカルを昔のように抱きしめようとする佐為の手が止まった。
「大きくなりましたね。ヒカル。」
黒曜石の瞳がまん丸に見開かれる。
「何年たったと思うんだよ?背なんかオレの方が高いぜ。」
確かに、どう見ても上背のあるのは佐為よりヒカルの方だった。
やや他人より身長が低かった少年は、若木のような青年になっていた。
佐為が繊手を伸ばすとヒカルは手の平を合わせた。
ヒカルの骨ばった長い指の手は、たおやかな指の佐為の手より大きかった。
「歳月のなんと残酷なまでに美しく喜ばしいことか。」
佐為の目が優しく細められてヒカルを眺めた。
「お前が変わんないんだからしょうがないだろ。」
恥ずかしくなってヒカルは目をそらした。
大きくなったのが成りだけじゃ、合わせる顔がない。
「続きを打ちましょう。」
ドキリとヒカルの胸が高鳴った。
至上の喜びでありながら恐るべき試練だった。
小さい佐為が碁石を戻すと並べなおしていった、あの時の並びに。
五月の風も青空もなくヒカルの部屋でもない場所で
碁盤の上の時間と空間は繋げられ再び動き出した。
ふわりと袖がゆれ優美な弧を描いて柔らかく輝く指先が
厳しい神の一手を放つと物理的な力さえ覚えて
座った場所から吹き飛ばされる感じがする。
行洋の鋭く輝く鉄槌のような一手ではないのに
優美にして柔らかな輝きのたおやかな動きの一手であるのに、
その力は全宇宙を鳴動させる。
あっという間にヒカルは負けていた。
だが佐為の顔は至福に満ちていた。
「ヒカル、強くなりましたね。
あなたの辛苦、努力、研鑽…。私は尊敬しますよ。」
小さな子供に戻ったようにヒカルは泣いた。
小さな佐為と昔のままの佐為、2人に茶菓をすすめられて
少し落ち着くと神座に座った佐為にヒカルは尋ねた。
「なぁ…、神道では人は死後、祖霊をへて神になるんだろ?
じゃあ、佐為は神なんだろう?囲碁の神様って会ったことあるか?
白いヒゲのじいちゃんなのかな?」
佐為は優美に微笑むと言った。
「会ったことありますよ。さっきまで、ここに居られました。
しかし今よりは私が囲碁神なのです。
あなたと別れた後ここへ来て神と碁を打ちました。
時折、この小さい私と碁を打ったり語らいあう以外、
昼も夜もなく続く激しい甘美な対局を続け
その末に勝った私は神となったのです。」
突拍子もない話にヒカルは菓子にむせてしまった。
小さい佐為が慌てて茶をとらすと一気に飲んだ。
「じゃあ、負けた元神様は…?」
「また転生し人間として修行に赴かれました。
あの方は私を特別に慈しんで下さった恩師です。
磨こうとして課した辛苦に、私が負けて命を絶ってしまったことを
自らの悪手として悔い千年の時を与えてくださった…。
苦痛の内に、喜びの中に、己の足りぬものを見出し悔い改め
精神を鍛え高めるための機会を下さった。
勝って恩返しが出来た私を本当に喜んで下さいました。」
ヒカルは優しい色に瞳をうるませている佐為に虎次郎にしろ前の神にしろ
入れ込まずにはいられなかった理由が見えた気がした。
子供より純粋に一心に碁を愛している、神の愛を得るほどに強く深く。
その愛ゆえの悲劇に命を絶っても、惜しむ神により現世への布石となるくらい。
そして、ついに神自身となり…。
「そうか!お前さ、神になったんだもんな。念願の神の一手を極めたんだよな。」
佐為は頭をふった。
「いいえ、神の一手は人が打つもの。この身で打つことはできません。
神の身であるものにとって、その一手を人に打たせることこそ神の一手なのです。」
桜色の唇がゆっくり優美な弧を描いた。
「ですから…ヒカル。さらに高みへ。より高みへ。共に参りましょう。
人との対局で美しい棋譜を描くことが私の望みです。」
風と共に桜吹雪が吹き付けてヒカルの視界をさえぎった。
視界が戻ったと思うとともに自分が目を見開いたのを感じた。
明るい光とクラッシックの音楽、賑やかな会話。華やかな会場。
目の前のテーブルにはフルコースの食事。
自分のおかれた状況が思い出せなくて見回すと一段高くなったところに
白いスーツを着たアキラとウェディングドレス姿の神子がいた。
2人の間には佐為がちょこんと座っていてはしゃいでいる。
「わぁあああああああああ!」
一気に思い出したヒカルは絶叫した。
怒りで紅潮したアキラの眉間に皺がより、つかつか壇上から降りてヒカルにつめよってくる。
「寝てるだけなら連日の対局で疲れているんだろうと思って見過ごしてやったが、
佐為の誕生日祝いの乾杯を邪魔するとはどういうことだ!
ふざけるな!」
そうそう、佐為と行洋の韓国帰りを待っていたら
アキラから寝耳に水の結婚の知らせを受け
佐為の7歳の誕生日祝いと合同の結婚披露宴にでていたのだった。
得心がいったヒカルだったがアキラは納まらない。
緒方と芦原が二人がかりで抑えて新郎の席へ引きずっていくが
まだ毛を逆立てた猫のような目で睨んでいる。
手を摺り合わせて頭を下げるヒカルの足元で小さな笑いが聞こえた。
「あいかわらずですね、ヒカルも塔矢も小学生の時と変わらないんですね。」
小さな佐為だった。
「小学生の時を知っているみたいに言うんですね?。」
不思議そうに佐為の顔をながめながら虎次郎が言う。
まさか…?。心の中で思わず呟いたヒカルの頭の中で歌がリフレインしていた。
とおりゃんせ。とおりゃんせ。
ここはどこの細道じゃ。
天神様の細道じゃ。
ちょっと通してくだしゃんせ。
御用のない者とおしゃせぬ。
この子の七つのお祝いにお札を納めに参ります。
行きはよいよい。帰りは怖い。
怖いながらも、とおりゃんせとおりゃんせ。
これからの囲碁界は怖いことになる。
ただでさえ小さい佐為の果てしない可能性が怖いくらい楽しみなのに
おそらく今や囲碁神様は現世に自由に通って来られるのだ…
ヒカルは楽しみで胸が躍るのがとめようもなかった。
H
.17 4/21完
あとがき
いきなりの展開に話が繋がってないのではと不安を覚えた皆様すいません。
このような訳だったんです
(^-^;)>ヒカルの神域行きは、行きはよいよいで帰りは囲碁神とともに
ある意味怖いご帰還となってしまったわけですが
HAPPY ENDでございます。
そして佐為復活
(?)を迎え「遥かなる時を超えて」完でございます。続きは私の中で色々なパターンで楽しんでおりますので
今しばらくは作品として出すことは出来ませんので
すぐに次回の告知は出来ませんから今は
アンジェリーク風に「続きは、あなたの心の中で…」
ということとさせて頂きます。